| 愛と情の狭間で |
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ある朝目を覚ますと、背中に銅版でできた亀の甲羅が張り付いた。というのは嘘で、 そんなよ〜な重苦しいエネルギーが、どの部分が痛いのかも特定できない 背中全体の鈍痛となってへばりついていた。 「あたたた・・・。えっ、なに?!」 呼吸すらままならない。息を吸ったはいいが、吐き出すのに口笛を吹くような唇の形で ゆっくりゆっくり吐き出した。 呼吸ができないほどの痛みは約1年ぶりだ。1年に1回そんな痛みがあること自体稀であろう。 前回は腎臓の痛みだった。と言ってもそれは西洋医学的観点で見れば、と付け加えておこう。 痛みは金曜日に始まり、すぐにひくだろうと安易にかまえ、数日間夜も眠れぬほどの痛みに耐えかねて、 日曜日の早朝自分で車を滑らせ救急病院へと駆け込んだ。 ところが当直の顔色の悪〜い若手ドクターの誤診を賜り、頓珍漢な薬を処方され、 痛みもひかぬまま更に丸一日ベッドの上で、教師に罰を与えられた子どものように、 体操座りで丸くなって過ごした。痛みで横になれなかったからだ。 「月曜日になったら、いつもの波動の先生のところへ行って、痛みの本当の理由を聞いてこよう!」 そんなお呪いにもにたつぶやきで、私はただひたすら痛みがひくのを待っていた。 そして月曜日、痛む右の背中を手で押さえながら、Kクリニックの診察室に入った。 「先生、私今日は病人なんです」 先生が笑う。普通不調だから訪れるのが病院だけれども、Kクリニックに関しては、 病人であると言う意識を持たず、魂の気付きの種を拝借するために訪れる、そんな摩訶不思議な 病院なのだ。けれどこの時ばかりは、どっぷり病人になりきっていた。 早速波動を診察。結果この痛みの原因は、エネルギーが入るパイプの工事のためだった。 今までにないほどの「父性」エネルギーが、私の中にどんどん流れ込んでおり、 エネルギーを受け入れるパイプのキャパシティーが、今までのサイズでは小さすぎるから、 それを拡大するための痛みである、と診断された。この話を一体どれだけの人が信じられるだろうか(笑)。 誰も信じなくていい。私が、私の魂が理屈を越えて、喜び、納得していればそれでいい。 私はそれを聞いてただただニンマリしていた。魂が甘いキャンディーを神様にもらって、喜んでいるように。 その後の仕事の展開、私生活での変化を思えば、まったく持ってドンピシャリな診断だった、 としか言いようがない。母性だけでは足りない、力強く生きていく父性的なパワーが、 その時私にはどれだけ必要であったことか・・・。立証すら、自分自身が行えばいいだけの話である。 あれから1年の間に、私は催眠療法(潜在意識)を行うヒプノセラピストとなった。 人に施すだけではなく、自己催眠によって、内なる医師(インナードクター)に直接つながり、 その痛みの原因を自分自身で受け取っていく術を身につけた。 一年前の痛みとは違う、今回の背中の痛みの意味はいったい何んだったのか? もちろん今回の痛みも、けっして私を苦しめる為にあるわけではなかった。 大きな気付きと次なるステージへ移行するために避けては通れない、ありがたいものだったのだ。 長い人生の中で、人は人とめぐり合い、その出会いの中で、多種多様なドラマが繰り広げられる。 その経験の中で、苦しんだり、喜んだり、愛したり、泣いたり、笑ったり、憎んだり、・・・味わい尽くす。 けれどその出会いと経験から、「何を学んだのか?」と考えながら生きている人とは、 めったにめぐり合わないものだ。私にとってはもはや当然のこととして、すべては魂を磨く為の気付きを伴う、 というあたりまえの考え方が自己の内に確固としてある。 けれど、めぐり合う人間が必ずしも同じ価値観で生きているとは限らない。逆にそのように生きていない 相手だからこそ、神様は出会いを用意して、大きなレッスンを与えてくださったのだろう。 例えばその出会いの中で、私は十分にその神様の意図を理解し学び、レッスンを終えたとしても、 相手が同じように学んでくれているとは限らない。互いの学びのプロセスによって、人生が交差しても、 相手がそれをちゃんと受け取れるとは限らないのだ。それは同じ気付きではないにしても、 何かしら出会った意味をポジティブに受け取ってほしい、と望んでしまう私のエゴもそこには介入する。 そこで私はいつも、後ろ髪を惹かれるように苦しんだ。真の愛と、情の狭間で・・・。 真が必ずしも相手に通じるとは限らない。真を語ることでかえって相手を傷つけてしまうこともある。 もうこれ以上傷つけたくない、そんな思いから心が揺れ動き、自分の弱さからずるずると 相手の思いや執着心に答え続けることによって、関係を断ち切れないまま、 結局相手をさらに苦しめ続けていたのだ。 切ることは簡単だ。けれど、それができないで苦しむことも、この一連の学びのプロセスの中において とても大切なことだったと思う。断ち切れないその痛みを味わい尽くした後だからこそ、 大いなる母の優しさですべてを包み込み、父の勇気ですべてを愛したまま、 手放していくことが可能となるのだろう。 今回の背中の痛みは、そんなレッスンだったのだ。 催眠の中でインナードクターにそのレッスンの答えを教えられ、 そして3日間自分の中で熟成させて、ようやく腹の底に落とすことができた。 外出先から戻り、家の隣にある神社を参拝した。 「神様、この痛みを与えてくださいましたことを、心より感謝いたします。 私にまた大きな気付きを与えてくださいましたことに、心より感謝申し上げます。 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」 スキップするように軽やかな気持ちで家に戻ると、そのとたん、ドド〜ンっと大きな雷が地を響かせた。 「あっ!神様の返事だ!」 私にとって雷は神さまと通じている合図だ。そして雷とともに宙を渦巻くような激しい雨が縦横に降り出した。 じゃかじゃかじゃかじゃか♪踊れ歌えとお囃子が聞こえる。ものすごく大きな浄化だ。 そして・・・、背中の痛みは、消えた。 翌日、ヒプノセラピーにいらしたお客様が、お花屋さんにお勤めになっていると言うことで、 沢山の白いユリを持ってきてくださった。ユリの花は、以前催眠の中で私が見た、 魂が神様と結ばれる長い一本道の両脇に美しく咲き乱れていた。 いわば白いユリの花は、私にとって神様からの祝福である。 「痛みによく耐えたね。そしてよく気付けました」とお見舞いのお花を贈ってくださったように感じた。 そして、神様へと通じる一本道の途上に、ちゃんと立っているよ、という証でもあった。 毎朝、私は、神棚に向かって祈りを捧げる。 ただひたすら、「ありがとうございます。ありがとうございます。愛しています」 とつぶやきながら、心と魂の深い深い部分から、その真のエネルギーを捧げている。 祈りは年々シンプルになっていく。 「ありがとう」 そして、 「愛しています」 ただそれだけだ。 ただそれだけを、真から捧げられるようになったことに、感謝している。 2008.8.1新月の晩に |