母なるイルカと父なる鯨 】

 
 結婚後、渡米する前の最後の仕事が、テレビ朝日の
 年末特番「行く年来る年」であり、メキシコで鯨の親子
 を取材し紹介するという企画であった。自然を相手に
 するにはそもそも無茶な4日間という強硬スケジュール
 の中、メキシコのサンイグナシオにある入江で、わたし
 たち取材班は来る日も来る日も、鯨の親子との接近を
 狙って小型船に乗りこみ、丸1日中波に揺られてながら
 姿を現すのを持っていた。しかし待てど暮らせど、鯨の
 親子は遠方に姿を現せども、番組として絵になるほどに
 接近してくれることはなかった。ディレクターはじめスタッフ
 が皆、焦りと責任感の狭間で押しつぶされそうになり
 ながらも、鯨の親子がわたしたちの乗る船近くに姿を
 あらわしてくれる事を念じながら忍耐強く待っていた。



取材3日目、皆の顔から笑顔が消えたころ、この重く陰気なエネルギーでは益々鯨は
遠のくばかりだと感じたわたしは、皆の元気が取り戻されるようイルカに呼びかけてみた。

「みんな疲れて、しょんぼりしているの。お願い遊びに来て、わたしたちに元気をちょうだい!」
するとイルカはわたしの心の声をキャッチして、ものの2分で姿を現してくれた。
そしてしばらくの間三頭のイルカは、わたしたちの船と競争するかのように泳ぎ、
時折ジャンプをしながら戯れ、スタッフみんなの心を和ませてくれたのだ。


 イルカは人の縮んだ心を癒す為なら即座に飛んできてくれる存在である。
それはまるで泣いた子の声に飛んでくる母親のようであり、この宇宙の母性的な役割を
象徴しているかのようであった。しかし鯨はそうではなかった。もっともっと壮大であり、
こちらの一方的な期待には一切見向きもせず、わたしたちが「成る」までは、けっして
答えてくれない厳格な父性を感じさせるものがあった。
 いったいどの様にわたしが変化すれば鯨は現れてくれるのか?
スタッフ数名と共に船に乗りながら、わたしはこれが自分自身の課題であることに
気付きはじめていた。イルカとの意志疎通に有頂天になることもまた、鯨を遠ざけているに
違いない。それじゃあどうすれば良いのか?船の上でただ波に揺られながら、
自問自答しつづけた最終日、わたしは「分からない」という答えに素直に従った。
するとなんだか、大の大人が壮大な海の上にプカプカと浮かぶ小船に揺られて、
湿っぽい顔をしていることが滑稽に見えてきて笑わずにはいられなくなった。
考えたところで、期待したところで、来るも来ないも鯨さんの気分次第!そう開き直っていく内に、
「4日間も海の上で揺られながらわたしたちはいったい何を見ていたのだ!」と叫びたくなるほどの
美しい光景が、思考を突き破り感覚の奥へと浸透していったのである。
太陽の光を反射した美しい光の粒子たちが海面をダンスしているではないか!
風の流れを読みながら、両の羽をめいっぱいひろげた海鳥たちが気持ちよさそうに
海上を飛行しているではないか!わたしはそれまでの4日間、「鯨と遭遇したい!」
という思いに囚われて、船の上でまったく「今」を感じず、「今」を見ず、「今」を生きていなかったのである。
エンジンを切った船の上には、ちゃぽんちゃぽんという小さな波の音しかなかった。
スタッフは相変わらず湿気た顔をしていたが、急にお腹の減ったわたしは
「みんなでどら焼きを食べよう!」と、アイスボックスから差し入れで頂いたどら焼きを
人数分取り出して皆に配った。そしてわたしは甲板の上で大の字になり、
大空を眺めながらガブリとどら焼きにかぶりついた。
「うまい!サイコ−!」
するとその時!舵を取っていたメキシカンのおじちゃんが何か叫びを上げた。
ふと状態を起こした時には、悠々と巨大鯨が船の真下をくぐるところであった。
夫の君氏は慌ててカメラを回し、何とかその瞬間をカメラに収めることができた。
「やってくれるわ!!」わたしはそのタイミングにあきれながら、たまらなく嬉しさがこみ上げていた。
完全に期待を捨て、今を味わい楽しみ感じた時、まさに自我で状況をコントロール
したがる思いを放棄した瞬間、鯨はその雄大な姿を現してくれたのである。





 人は神様から与えられた生きていく為の知恵を
 生み出す能力を誤用し、誤まった力を創造した。
 それは人間同士の間にとどまらず、自然をも自分
 たちの利己的な目的にあわせてその姿を変えさせている。
 偏った力によってコントロールされた人間は生命力を失い、
 怠慢な人間によって侵蝕された自然は破壊され続けている。
 人も自然も同じである。調和しながら共存していくには、
 互いの意志を尊重し、思いを共感し、相手を利己的に
 コントロールする意識を完全に捨て去ることからはじめ
 なければならない。それができた時初めて、
 高邁な望みと理想が成就されるのだろう。



                  『至福へのとびら』より


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